慶長5年(1600年)、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突した関が原の戦い。当時、会津120万石の藩主であった上杉景勝は西軍に加担し敗戦しました。そのため、会津から米沢30万石に減移封され、慶長6年(1601年)、上杉家は米沢に移りました。
その際、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒に移り住んだといわれています。小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。重臣直江兼続は早急にまちづくりにかかります。本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短時間のうちにまちの骨格を作り上げました。
また、兼続は城下に収まり切らなかった下級家臣団は東原・南原に住まわせ、生活の為に農業を営む半士半農の生活をさせ、米やそばの栽培を奨励しました。現在も南原地区ではそばの栽培が行われています。昔、彼らのことを「原方衆」と呼んだことから、南原産のそばは「原方そば」と命名されています。「出羽かおり」という品種で、香りがたつ、大変美味しいおそばです。
うこぎはウコギ科の植物で、米沢では昔から食用として重宝されてきました。上杉家重臣直江兼続が、各家庭の生け垣として奨励したと言われています。
うこぎには、ミネラルやビタミンが多く含まれ、近年では抗酸化作用、食後の血糖値抑制作用が認められています。
4月から6月頃に新芽を食します。独特の香りと苦みがありますが、天ぷら、おひたし、うこぎ味噌、うこぎご飯など、初夏を告げる野菜として重宝されています。
今でも米沢のあちらこちらでうこぎの垣根を見ることができますが、特に米沢市の南部、芳泉町では保存会が発足され、美しい垣根が大切に保存されています。